このところ雑記帳

りおの日々のつれづれを

人生はいつだって自分しだい、と思いたい。

思いがけなく、うまくいかないことはたくさんある。しかし、

思いがけなく、嬉しいことに出会えることもある。さらに、

それをいいことにとらえるか、いまいち、と思うか、まあまあ、と思うか、はたまた腹を立てるか、自分とのスタンスの取り方は自由であり「私」に委ねられている。

年を重ねれば「人生初」なんてなくなるのかと思ったら、来るわ、来るわ。

そう実感していない人を見つけるのも難しいのではないかと思う。難題を超えると、次はこのレベルでも大丈夫ね、と言わんばかりにまた新たな難題がやってくる。それはたいていの場合、向こうからやってくる(ように感じる)。

あふれる電子音、人工知能に囲まれる日常。こういう環境も人生初だけれど、その存在の意味が呑み込めない謎に満ちたものもある。私たちの欲望の先は、手足を動かさず五感に蓋をしても生きていけそうな日常。どんなありようを理想社会として描いているの?と、しばし自問。

これを怖い、と感じるか、まあ!便利で素敵ときらきらした眼で感じるか、どれも自由である。

 

突然の災害が降りかかり、日常の風景から色を奪い取られ、やり過ごすしかない時間を生きている人が、身近なところに大勢いることを忘れない。

21世紀になって十数年が過ぎたというのに、地球のあちこちで今この瞬間にも、戦火をくぐり、命を繋ぐことに精いっぱいな人たちがいることを忘れない。

働き、美味しいものを食べ、歓談し、笑い、お風呂に浸かり、暖かな布団で眠る。そんな一つひとつの「普通のこと」ができて今日という日を終えられること、これは紛れもなく、奇跡なのだ。感謝しなければ。

娘を0歳からほぼ一人で育ててきた私は、「あたりまえの変わらない毎日」が子どもにとっていかに重要か、それを維持することがいかに大変なことか、身を持って知った。

当時、延長保育の無い保育園が割り当てられ、なぜ私たち親子がこの保育園に?と思いながら、夕方から保育室のスタッフに迎えに行ってもらい二重保育をして乗り切った1年があった。その時は20時近くに子どもを迎えに行き、時にはそこで母乳をあげ、帰宅し、お風呂に入れ、お洗濯をして、夜半に野菜をことこと煮て、そして朝はまた自転車で保育園である。ゆったりできる時間などどこにもなく、以前の、仕事帰りにドラッグストアに立ち寄って、なんとなく化粧品のラベルを眺めていた頃の贅沢さが泣けるほどだった。また、思春期の頃に「あたりまえの変わらない毎日」がばかみたいに思えた自分の、まっとうな成長ぶりを懐かしみながら、両親の、親としての仕事に初めて頭が下がった。

そんな日々でも、笑顔のない日はなかった。これこそプライスレス。

仕事の後に足早に駅に向かい娘を迎えに行くのが嬉しくて、誰かに頼みたいなんて一度も思わなかった。分単位で成長する娘は、泣いても、ぐずぐずと私を困らせても、毎日「人生初」の新しいことに満ち満ちていた。保育士さんに言われる、とんでもない、初めてのことに腹を立て、涙しても。

子育ては、私に宝物のような経験を惜しみなく与えてくれた。

 

 自分は何があっても大丈夫だと信じる。実はこれがなかなか難しい。マニュアルがあるわけでもなく、七転び八起きというか、50敗したけど51勝、やっと勝ち越し、というような経験を積んでいく中で体得するしかないのだ。

大事なのは、たぶん、休み休みでいいから、一番苦しい六転び、あるいは42敗くらいで「もう無理」なんて思わないこと。

おまじないは、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。

明日を生きるには、これしかない。人生は、自分しだい、と思い込もう。